刀行く道

刀行く道

1,500円(税込)

怒涛の時代を生きた2人の医師の物語

弘前の集落で行き倒れた男を助けた女医の雫。その男の珍妙な姿に、切支丹弾圧から逃げ延たのだと思い匿うことを決意した。しかし、男の正体は思いもよらぬものだったのだ。江戸幕末~明治を舞台に、時代の激動へと巻き込まれて行く。
B6/178P

第一章より抜粋

 一八六七年、慶応三年。季節は春も終わりを迎えようとしていた頃の、弘前(今の青森)での出来事である。
 慌ただしくも荷車ががらがらと不規則な音を立て、集落から少し外れた診療所に到着した。荷車を引きずってきた男が一人、放たれたままの診療所の入口で大きな声を上げた。
「高島(たかしま)先生は、おらんかのう」
 男の着ける頬被りの下から、酷く汚れた顔が覗いていた。最低限の衣服を身に纏ってはいるが、それはぼろ布よろしく。褌まで泥に塗れたその姿から、到底医者に通える程の余裕はないと見える。
 奥から、林檎の頬をした少女の凛(りん)が顔を出した。
「権平太(ごんべえた)さん、こんにちは」
 この権平太と呼ばれる男とは対照的に、小奇麗な着物を纏った診療所の女中だ。
「高島先生は、お留守かのう」
 権平太が凛に尋ねると、遅れて屋敷の中からすらりとした娘の高島雫(たかしましずく)が現れた。
「どうされました?」
 軽く頭を下げる権平太に、診療所の主人であり女医の雫は、落ち着いて問うた。
「おらの畑で、人が倒れておったんです」
 言いながら、権平太は荷車の筵を捲った。
「最初は、盗人だと」

 ――その男、奇っ怪なり。

 手入れなくだらしのない総髪は見慣れない元結で無造作に結われており、着物の襟元や袖元からは薄汚れたひらひらした肌着が覗いていた。
 雫が顔に掛かる男の髪をそっと避けてやると、耳元に小さな石が見えた。
「耶蘇」
 権平太の呟きに雫は答えず、彼にこの奇妙な男を診療所の中に運ぶよう告げた。男の持ち物は、この時代には相応しくない南蛮を思わせる革の鞄一つであった。
 この時代、慶応三年の日本は、十月に行われる大政奉還に向け、激動の荒波に揉まれていた。
 止まらない時代の流れを何とか制しようとする幕府と、新たな時代をと気勢を上げる志士達とが激しくぶつかり合っていたのだ。
 大政奉還。二百七十年続いた徳川の世に幕を下ろすのと同時に、天を覆っていた龍が地を這う獅子に地上へと引きずり下ろされる事を意味していた。それは人々の心に不安を産み落としたのだった。鬱憤が、ええじゃないかと民衆騒動を起こさせた程だ。
 歴史に名を残した多くの人物が消え、生まれた年でもある。一月には夏目漱石、九月に正岡子規が生まれた。そして、四月に高杉晋作、十月に坂本竜馬、中岡慎太郎が逝去した。
 瞬きする余裕も無い程、時代は濁流のように流れていた。誰にも制することなど、出来るはずもなかった。
 雫は権平太に、この奇妙な男について他言しないように強く口止めした。
 つい最近の話である。長崎で耶蘇教徒が八十五人も捕縛されたと耳にしていたから、この男も命辛々逃げてきたのではないかと察したのだった。
 男を匿うことに対して、権平太も凜も一度は反対したのだが、雫は頑として聞き入れようとはしなかった。
「この方が、仮に耶蘇であったとしても。今は、病人に変わりがないのです。病人、怪我人を、私は見捨てることが出来ません」
 それは、雫という女医の生き方でもあった。
 雫の診療所から徒歩四半刻程の場所に、権平太の住まう集落があった。その集落はかつて村であり、診療所も村の中に存在していた。
 雫が、幼少の頃である。村に、奇病が流行った。それは、虎狼狸(=虎列刺)によく似てはいるが、虎狼狸(コロリ)では無かった。
 財のあるものは村から離れていった。貧しい者と病人だけが残り、村はあっという間に藩からも見放された集落と化した。
 医者であった雫の父は、自ら集落に残り、残った者達の治療にとあたっていた。
 だが、不幸にも雫の母はこの奇病に当てられ、早々に逝去してしまった。
 雫は、やむなく隣り村の父の友人である医者に預けられたのだった。
 幼い雫を残したまま、父も奇病のため病臥した。父が亡くなった時は、既に雫の中には強い覚悟が生まれていた。
 元服を終えた雫は、医者として父の志を継ぐと、周りの反対を押し切って父の残した診療所に帰還した。
「雫様、大丈夫でしょうか?」
 耶蘇を庇ったとあれば、いくら見放されていると云えど、この診療所も只では済まないであろう。凜が心配げに問うた。
「元気になったら、直ぐに逃がしてやりましょう。人の命を奪うことは、本来は誰にも許されない筈です。看護は私がしますから、凜は心配しないで」
 少女は、黙って頷くしかなかった。

サイズ
B6
ページ数
178
納期目安
ご入金確認後1営業日以内に発送
配送方法
購入数制限
なし
残り在庫
2冊
初回発売日 2025.06.01
最終納品日 2025.05.31

刀行く道

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作家

鞍馬 榊音

鞍馬 榊音

くらましおん

柿助&榊音

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