きらめく昼下がりの彼女たち

久慈川栞
800円
購入可
2025年七月に、綺想編纂館の朧さま(https://x.com/Fictionarys)が主催された『文披31題』のお題にそって書いた掌編小説集です。ファンタジーだったり、現代日本のどこかの誰かの日々だったり、お題から浮かんできた31のお話が入っています。ほとんどは読み切りですが、中にはつながりのあるお話もあります。
Day 1 まっさら
私のすべては、彼だった。
彼の好みに合わせて化粧を変え、服を選んだ。彼が好きだというから、名前しか知らなかったアイドルの曲を聴き込んだ。
足下に打ち寄せていた波が、いつのまにか遠ざかっている。先ほどまでそこにあったはずの貝もさらわれている。引き潮だ。
ああ。私には、彼しかなかったのだ。
Day 4 口ずさむ
恨み言か、ただの苦悶か、あるいは意味など含まれていないのか。
人の耳には呪詛としかとらえられない嘯きが、大地を、大気を震わせている。しかしそこにはもう、人を呪うだけの力はない。それでもなお刻みつけるように吐き出されたそれは、呪いの化身ごとその端からほどけ黒い砂に変わり血のように吹き溜まった。
それが、この地を長らく蝕んできた呪いの最後だった。
「ようやく解放されたんだ。歓喜の雄叫びくらい上げりゃいいのに」
同情。憐れみ。確かにそのように分類できるものが、男の口調には滲んでいた。
呪いをたたっ切ったばかりの長剣を鞘に戻したのと同じ瞬間、
「みんながみんな、あなたみたいに能天気じゃないんですよ」
見習い聖女は、渾身のあきれを込めてとなりに立つ男を横目で見上げた。
それから彼女は黒い砂の前に進み出て膝をついた。定められた作法に従って鎮魂の印を切り、慰めの歌を口遊む。
強い風が砂をさらう。風に乗り、歌に導かれて、一粒残らず空に散った。
Day 12 色水
簡単な近況報告のあと、無事を祈る定型文を添えたところで、手が止まる。
まだ少しの余白があった。個人的な事項を記すだけの余白が。
まだガラスペンの先も濡れていた。あと一行か二行、連ねられるほどには。
――結局は今日の日付と署名だけを続けて、水を張った小さなグラスにペン先を沈める。ほどけるようにインクが滑り落ちた。書けなかったことで水が染まる。
Day 27 しっぽ
一泊分の荷物を詰めた、キャリーケース。小ぶりなリュックサックに折りたたみの日傘や日焼け止め、薄手の上着を詰めて。スマホショルダーにはカードと、念のために現金を少し。
アパートのドアに鍵をかけて前を向く。夏空は少しくたびれて見えた。やわらいできた暑さには、もう次の季節の気配が紛れ込んでいる。七月に比べればずいぶんと静かになった蝉時雨の主旋律は、ツクツクボウシ。
八月三十一日。しっぽでもいい。夏をつかまえにいこう。